02/23/2007

「聞く耳」を養う

撮影:相田晴美 スリランカ・ヌワラエリヤ 「聞く耳」を養う
アルボムッレ・スマナサーラ長老

 皆そう思っていないのですが、私たちのこころは全然、素直ではありません。いくら仏教を学んでも、こころはそう簡単に真理を受け入れない。ブッダの教えが真理だと知っていても、一切の現象は無常だと分かっていても、やっぱりこころからは認めないのです。
 だからこそ、私たちには「精進」が成り立つのです。納得して理解した真理を、自分の性格に、こころに、叩き込むために精進努力して、真理が自らの智慧になる。それが「悟った」ということです。悟るためには、真理を認めたくないという、生来のこころのプログラムを強引に入れ替えないといけないのです。仏教の学問は、そのプロセスに沿って進みます。仏教を学ぶ順番は、すなわち悟る順番なのです。
 日本の道元禅師は「森羅万象がブッダである、ブッダの教えである」という意味の歌を詠んでおられますね。私たちが「聞く耳」を持つならば、川も水も草も木も鳥も、真理を語っていることが分かるでしょう。「生きる意味とは何か?」と誰かに聞かなくても、青虫一匹を見れば、それが分かるはずなのです。「虫なんか気持ち悪い」と怯えて逃げる人は、妄想のとりこになって、真理を聞く耳を塞いでいるのです。自分も「気持悪い」細胞を何十キロも持っているのにね。
 青虫はジリジリと、そのまま真理を語っています。「青虫にたとえて真理を語る」のではなく、「青虫が真理を語っている」のです。それが文学的には「青虫がブッダですよ」という表現になる。道元禅師は奇をてらったわけではなく、修行で体験した世界を淡々と語っただけなのです。
 主観・固定概念を捨てて、ものごとを観察すれば、私たちの耳を塞いでいる「妄想」はほとんど消えます。妄想が消えると、理性が機能しはじめる。そこでようやく、私たちは真理を「聞く耳」を持てるようになるのです。
 妄想をやめることにチャレンジして下さい。悟りはともかく、「観察すればするほど、いつでも面白い世界を生きられますよ」ということは保障します。

(スマナサーラ長老法話から構成しました/編集 佐藤哲朗)
 
日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー(Patipada)』
2550/2007年2月号(Vol.13 No.10(No.144))掲載

01/24/2007

ブッダの道へようこそ

Img_0204ブッダの道へようこそ
アルボムッレ・スマナサーラ長老
 
 ブッダの道は真理の道です。ブッダの教えは、我々がとことん幸福に平和に安穏に幸せに生きるための具体的なアドバイスです。ブッダの言葉を聞けば、この世の中のだれもが幸福になります。そして、仏教は自由な世界です。「信仰せよ」と迫ったり、脅したりすることは一切ありません。
 他の宗教では、「神が自分を讃嘆するために、人間を造ったのだ」と説いています。「人間の仕事は神様を讃嘆し、誉め称えることである。人間はそのために造られた」と聖書にも記されている。
 一方、ブッダは純粋な慈しみと哀れみで、苦しんでいる我々に存在の法則を教えてくれました。「これは法則です。この法則を見て、自分たちの幸福を築いてください」と。ブッダは別に我々から何も期待しているわけではないし、ブッダを信仰しているからといって、お釈迦様は喜ぶわけではないのです。
「生命は苦しんでいるのです。
 その苦しみには原因があります。
 苦しみの現れる原因をなんとかして無くすことです。
 それにも確実な道があります。
 だから、それを実践してみなさい。
 私はその方法を実践して、今は完全たる幸福を達成しています。
 私の弟子たちもその方法を実践して、完全たる幸福を達成しています。
 『幸せになりたいけど、自信がない』『そんな話は疑問だ』というなら、その事実を見て信頼をして下さい」と。
 仏教とはそういう教えなのです。だから皆さんは幸福を目指して、「できるところまでとことん成長するのだ」と目的を持って頑張ってほしい。個人的な小さな希望は置いておいて、とことん幸福を目指してほしいのです。
 他人とうまく喋れるようになりたいとか、あがらないようになりたいとか、イライラしないで過ごしたいとか、そんなの目的としてはあまりにも小さすぎ。それが人生のすべてというわけではないのです。
 だからブッダと、ブッダの教えと、ブッダの教えと出会って幸福になったたくさんの人々(仏・法・僧)とを信頼して、「とことん成長するぞ」という気持ちで、ブッダの道に足を踏み出してください。

(スマナサーラ長老法話から構成しました/編集 佐藤哲朗)
 
日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー(Patipada)』
2550/2008年1月号(Vol.13 No.9(No.143))掲載

12/19/2006

無常と笑いと才能の関係

Attanagalla_rajamaha無常と笑いと才能の関係
アルボムッレ・スマナサーラ長老

 残念なことに、日本はマンネリ人間でないと立場がない社会です。この事実は我々が個人的に頑張ってもどうすることもできません。ただ、私から見て歯がゆいのは、日本人は一発で仕事を成功させることに慣れていないこと。百回繰り返さないと結果が出ない、出してはいけないと思い込んでいるように見えることです。三十分でできることに三時間かけるのだから、当然コストがかさんで何でも高くなります。最終的には立派にできても、それでは評価できませんね。ストレスだらけで必死になって、しかも結果はよくないのだから……。そういうポイントを直せば、日本はホントに豊かになると思います。

 皆さんも、ご自分の仕事だけは、短時間で失敗のないようにやってみれば如何でしょうか?

 みんな自分にはそんな才能はないと思って悩んでいます。でも仏教の立場から言えば、才能というのは特別なものではありません。ブッダの無常論を知るならば、即ちそれが才能なのです。無常を理解して、「同じことは二度と起こらない」という気持ちで生きていれば、脳細胞はビシビシと動くのです。例えば、「毎日同じ我が家に戻るぞ」と思ったら、それはとんでもない間違いです。毎日、同じ家に戻るなんて無常という真理からはあり得ないのです。そうやってとことん、無常を理解して生きてみることです。

 それから、脳を動かすためには、いつでも明るくて、楽しくいなければいけません。みんな苦しんで、悔しがって、競争心に燃えて、腹を立てて、ライバル意識で生きているでしょう。脳内でアドレナリンばかり作っていますが、アドレナリンは身体にすごく毒です。いつも明るく笑える人間なら、アドレナリンいらずで落ち着いて生きていられます。

 笑うといっても、他人を嗤(わら)うのはダメですよ。自分の抱えている仕事や人間関係や様々な問題にちょっとした冗談のポイントを見つけて、自分を笑っちゃうのがクールなのです。脳から落ち着きのホルモンを出すためには、笑うことが一番です。それから、ホントに才能を身につけたければ、「無常であること」を徹底的に理解して、心から納得することです。それでみるみる才能が現れてくるのです。

(スマナサーラ長老法話から構成しました/編集 佐藤哲朗)
 
日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー(Patipada)』
2550/2007年12月号(Vol.13 No.8(No.142))掲載

11/28/2006

「知っている」人に進歩はない

Stupa 「知っている」人に進歩はない
 アルボムッレ・スマナサーラ長老

 
 人間は「あれも知っている」「これも知っている」と言いたくてたまらないものです。でも気をつけて下さい。「私は知っている」という高慢は、ものすごく巨大な「心の鍵」になるのです。高慢という鍵で、自分の心を頑丈にロックしてしまう。それでもう進歩はなし。人生はおしまい。「私は知っている」という人は、お釈迦さまにもどうにもできません。

 人間は誰でもそんなに差はないのです。しかし「まだ知らないことばかり」という態度でいる人だけが、成長できるのです。「私は知っている」という人は、鍵をかけた心のなかで、日々、知恵が衰えていくのを待つしかない。高慢という心の鍵を開けるのも閉めるのも自由意志です。心の鍵は自分で開けるしかないのです。

 修行の世界でも、「私はここまで進んでいる」という人はぜんぜん前に進めません。ヴィパッサナー冥想は「まだこれがある、まだこれがある」と自分のダメなところ、未熟な処を観る道だからです。「ここまで進んだのですけど、次は?」と聞かれても、「次は」ないのです。そういう修行には勇気が必要なので、知識人でないとやりきれない。ブッダの定義する知識人とは「まだ私には欲がある。まだ怠けてしまう。これではまだまだ情けない」と自分の小さな欠点にも気づける人のことです。

 ヴィパッサナーは中道的な瞑想だから、あまりにも悲観的になるのもダメだし、「ここまで進んだ」と慢心してもダメ。完全に悟るまではずうっと有学(うがく)だから、いま自分が学ぶべき処を観るしかありません。学校でも、瞑想でも、分からないところに、知らないところに重点を置いて勉強しないと進歩はないのです。

 修行者が預流果に悟っても、「自我がない」という処でウロウロしていると「愚か者!」と怒られます。「自分という実体がないと分かっても、怒りや欲が出るでしょう」と。預流果に悟ったら、次はそうやって自分の未熟な処、感情に当たらないといけない。だから自分の愚かさに気づくことは、修行の完成まで続く仏教の大切なポイントです。

 (スマナサーラ長老法話から構成しました/編集 佐藤哲朗)

日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー(Patipada)』
2550/2007年11月号(Vol.13 No.7(No.141))掲載