「知っている」人に進歩はない
「知っている」人に進歩はない
アルボムッレ・スマナサーラ長老
人間は「あれも知っている」「これも知っている」と言いたくてたまらないものです。でも気をつけて下さい。「私は知っている」という高慢は、ものすごく巨大な「心の鍵」になるのです。高慢という鍵で、自分の心を頑丈にロックしてしまう。それでもう進歩はなし。人生はおしまい。「私は知っている」という人は、お釈迦さまにもどうにもできません。
人間は誰でもそんなに差はないのです。しかし「まだ知らないことばかり」という態度でいる人だけが、成長できるのです。「私は知っている」という人は、鍵をかけた心のなかで、日々、知恵が衰えていくのを待つしかない。高慢という心の鍵を開けるのも閉めるのも自由意志です。心の鍵は自分で開けるしかないのです。
修行の世界でも、「私はここまで進んでいる」という人はぜんぜん前に進めません。ヴィパッサナー冥想は「まだこれがある、まだこれがある」と自分のダメなところ、未熟な処を観る道だからです。「ここまで進んだのですけど、次は?」と聞かれても、「次は」ないのです。そういう修行には勇気が必要なので、知識人でないとやりきれない。ブッダの定義する知識人とは「まだ私には欲がある。まだ怠けてしまう。これではまだまだ情けない」と自分の小さな欠点にも気づける人のことです。
ヴィパッサナーは中道的な瞑想だから、あまりにも悲観的になるのもダメだし、「ここまで進んだ」と慢心してもダメ。完全に悟るまではずうっと有学(うがく)だから、いま自分が学ぶべき処を観るしかありません。学校でも、瞑想でも、分からないところに、知らないところに重点を置いて勉強しないと進歩はないのです。
修行者が預流果に悟っても、「自我がない」という処でウロウロしていると「愚か者!」と怒られます。「自分という実体がないと分かっても、怒りや欲が出るでしょう」と。預流果に悟ったら、次はそうやって自分の未熟な処、感情に当たらないといけない。だから自分の愚かさに気づくことは、修行の完成まで続く仏教の大切なポイントです。
(スマナサーラ長老法話から構成しました/編集 佐藤哲朗)
日本テーラワーダ仏教協会機関誌『パティパダー(Patipada)』
2550/2007年11月号(Vol.13 No.7(No.141))掲載
自分のブログでも取り上げさせていただきましたが、本当に「頭をぶん殴られた」ような説法でした。
この気持ちを忘れず精進していきたいです。
Posted by: フルナ | 11/29/2006 at 08:30 หลังเที่ยง